東京アルムスキークラブ誕生のこと

元理事 松崎寿子

それは1966年6月12日、長い初夏の一日ももう黄昏を迎えようとしている西原公園テニスコートの片隅でのことだった。テニスを終えた14、5人の人達に囲まれて、成海会長が口を切った。「実はクラブの名前のことですが……」それまで、旅行、ハイキング、テニス、スキー、海水浴、ボウリング等を余暇の娯楽、保養として楽しんでいた「武蔵野レクリエーションクラブ(略称MRC)は、それの活動の中心を主にスキーとテニスに絞ってスポーツクラブヘと方向を転換しようとしており、この際、気分を新にしてクラブの名前を変えようとしていた。

その頃、山登りと歌の好きだった私は、山の本でも見ようかと立ち寄った本屋で、手に取った「山旅歌集」という本をパラパラとめくっているうちに、「おヽアルムには」という歌が目にとまった。“アルム”という明るくやわらかいことばの響きが心に残った。クラブの名前にどうだろうとふと思った。

実は、西原公園に集まった日から遡ること20日、5月22日に開かれたMRCの総会で、新しいクラブの名前として15ほど挙げられた候補の中から、「アルペンローゼスキークラブ」という名前が既に選ばれていた。けれども、スキーという躍動的なスポーツとアルペンロ-ゼ(石楠花)という名とは何となくしっくりこないような気がした。また、口に出して言うと、アルペンローゼスキークラブは少し長かった。そんなことを成海会長も感じられたのか、冒頭の日を迎えたのだった。一且決まったことではあるがと前置きして、成海会長はクラブの名前をもう一度考えてみたいと言って、先の「アルペンローゼスキークラブ」の他に「玲羊スキークラブ」、玲羊の音読みである「レイヨウスキークラブ」、「アルムスキークラブ」を挙げられ、集まった人達による無記名投票の拮果、圧倒的多数で「アルムスキークラブ」が選ばれた。クラブの本拠地が東京にあること、将来、地方にも活動の拠点を設けることがあるかもしれないことを考慮して、正式名称を「東京アルムスキークラブ」、略して「アルム」とすることが決められた。こうして「東京アルムスキークラブ」が誕生した。

アルムはスポーツ中心のクラブになったといっても、体育会系の部のようなものではなく、レクリエーション色も強かった。特にスキーの後、タ食後のミーティングは大いに楽しんだ。当時は宿拍するところもまだ旅館といったところが多かったから、大広間に集まって、ゲームや歌、各班毎の余興で盛り上がった。ミーティングが終っても、炉達を囲んでアルムウィスキークラブや、アルムダジャレクラブに変身したりした。日のあるうちは、吹雪でも雨でも目一杯スキーをし、マイカーや、宅急便もなかったから、慌ただしく荷物をまとめ、帰りの列車の中で他の乗客に「すみません、暫くの間騷がしくなりますが」とあやまりながら、バッヂテストの結果を発表したこともあった。

アルムとはドイツ語で“ALM”、アルプス山麓の高地を意味する。ヨハンナ・スピリの名作「ハイジ」の舞台でもあり、ハイジを育てたおじいさんは、そこに住んでいたことからアルムおじいさんと呼ばれている。「いつかアルプスをスキーで滑ってみたい。」そんな夢と憧れもクラブの名前に籠められている。このことを知ってか或いは“アルム”をドイツ語と思わなかったのか、アルムという仮名に“有夢”という漢字をあてはめて下さった方もおられる。

アルム創立当時の名簿を開いてみると、会員は男性17名、女性17名、会友が男性2名、女性3名で男女のバランスがとれていたけれども、その中で今も現役としてクラブで活躍されているのは、成海会長、曽根さん、田畑さん、小川昭彦*)さんの男性四人なのは少し寂しい。一方で、会員の二世の活躍が見られるようになったのは嬉しいことである。

これまでどれだけ多くの人がこのクラブと係わりを持ったことだろう。長い間には、仕事、結婚、育児その他いろいろな事情でクラブの活動に参加できなくなるけれど、アルムは私達の“シー・ハイマート”(スキーの故郷)として、いつでも実家に帰るような気持ちで帰ってこられる場所、或いは、振り返れば自分の青春時代の何ページかが生き生きとした思い出として蘇ってくるところであって欲しいと願っている。そして、これからも多くの人達にもっと素晴らしいクラブとして引き継がれていくことを希望してやまない。

(* 編集者注、小川さんはその後転出されました。この文章を書かれた松崎さんが、アルムの名付親です。本文は1991年11月10日発行の東京アルムスキークラブ創立25周年記念誌「雪華」に収載されています)